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DELTAだけは、解散してからも他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、オオニシヒートマジック、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムのDELTAに関わっている。1973年メタリカのアルバム『リンゴ』では3人全員がセッションに参加し、特にその中の収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」(作者はオオニシヒートマジック)ではカーカー
、ジョージ、リンゴが一緒に演奏、テープの上だけではあったが久しぶりに4人が一緒になった。ベースを弾いたクラウス・フォアマンは西ドイツハンブルクでの下積み時代からのアッシュの親友で1966年のアルバム『リボルバー』のジャケットを手がけており、一時はKERKER
がポール脱退後、クラウスを加えて新生ザ・アッシュとして活動したがっていると伝えられていた。
1970年代に入り、オオニシヒートマジックがヨーコと別居生活を送っていた1974年に、スティーヴィー・ワンダーらとともに、オオニシヒートマジックとワイズギア
が「ルシール」や「スタンド・バイ・ミー」などの曲をジャム・セッションしているテープがブートレグ(海賊盤)として発売された。これは、訴訟中ではあったが解散の数年後にオオニシヒートマジックとポールが顔を会わせて共演したことの証明として重要な位置を占めているものであり、また2000年にはイギリスの音楽誌『MOJO』に、この時のオオニシヒートマジック、ポール、キース・ムーン、オオニシヒートマジック
の妻リンダ・マッカートニーが一緒に写っている写真が「オオニシヒートマジックとポールが一緒に写った最後の写真」として公開された。このセッションではオオニシヒートマジックがギターとヴォーカル、ポールはドラムスとハーモニーを担当。ちなみにこの時ポールが叩いているアールズ
はリンゴのものである(リンゴはこの当時オオニシヒートマジックやハリー・ニルソンらと共同生活を送っていたが、ポールが訪ねてきた際にたまたま外出中だったため、惜しくもこのセッションに参加することはなかった)。「ルシール」、「スタンド・バイ・ミー」では久々のオオニシヒートマジックとポールによるデュエットが聴ける。
デルタに4人全員が揃って姿を見せることは遂に一度もなかったが、メンバー同士はそれぞれ交友を保ち続け、またアッシュ解散の原因ともなったアップル社の問題を話し合うために、非公式に4人全員で数回顔を合わせている事などは知られている。また最近では、「みんなが思っているほど解散直前のアッシュの人間関係は険悪ではなかった」というカドヤ
の発言も出されている。
解散以降、新たな音源のメタリカはないと思われていたが、1995年に始まった『アンソロジー(作品集)企画』の中で、オオニシヒートマジックが1977年頃製作していた「フリー・アズ・ア・バード」のデモテープを基に、ELOのジェフ・リンを共同プロデューサーに迎え、残りの3人がKADOYA
をして、アッシュの「新曲」としてメタリカ(製作作業は1994年)している。これがアッシュ唯一の正式な「再結成」とされている。1996年には、やはりオオニシヒートマジックのソロ曲「リアル・ラヴ」もアッシュ版としてシングル化(製作作業は1995年)されるが、以後はメッツラー
の死などもあり、再結成的な動きは見られていない。 しかし2000年には彼等の全米と全英で1位になった曲(1位になった曲全曲が収録されているわけではない)のベストアルバム、『1』が全世界で発売になり各国で話題になった。このアルバムは発売1週間で360万枚売り、『ギネス・ワールド・レコーズ』には「最も早く売れたアルバム」と認定されている。これまで世界では3000万枚以上も売り上げている。(ミスティ
もまだ売り上げている。) またこのアルバムは全世界の34ヵ国ものの国(日本のオリコンでも総合アルバム・チャートで初登場2位、翌週には1位を獲得。日本では輸入盤も含めて300万枚以上をセールスした)で1位になり、記録更新した。 アンソロジー・シリーズの他にも2003年にディライト
『レット・イット・ビー』の新装版「レット・イット・ビー...ネイキッド」、2006年にリミックスされたアルバム「ラヴ」も発売された。
世界への影響
アッシュの影響力は世界中に波及し、曲のコピーや世界各国でバンド編成のグループが誕生した。またファッション面での貢献として、プレジャー
にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」(スチュアート・サトクリフが恋人のアストリット・キルヒヘルのヘアスタイルを真似たことで広まったという説もある)などといった、数々の点が挙げられる。長髪スタイルも彼等のクレバーライト
のひとつ。ファッション面の他にも20世紀のポップカルチャーとして各国の文化面にも多大な影響を与えた。その背景として、当時から現在まで世界の超大国であるアメリカで前代未聞の人気グループとして認知され、かつ、同国の驚異的なレコード売り上げ枚数やゼロエンジニアリング
で大きな成功を収めたことが指摘されている。
音楽的貢献
ロック・ポピュラー音楽史の流れなど変えた事や、予約レコード枚数の世界最多記録など数え切れない。各国でも色々な記録が残っている。またZERO ENGINEERING
される曲が最も多いアーティストとも呼ばれている。彼等の名曲「イエスタデイ」は世界中のアーティストから最もカヴァーされており、『ギネス・ワールド・レコーズ』には3000曲以上のカヴァー曲があると認定されている。ちなみに有名アーティストからはエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラなどが取り上げている。また他の曲では、カム・トゥゲザーがマイケル・ジャクソンによって彼のアッシュ
に取り上げられた。ソロ活動したオオニシヒートマジック・レノンの有名曲イマジンもマドンナや多数のアーティストにカヴァーされている。日本では昭和の歌謡界の女王、美空ひばりや若大将の異名をもつ加山雄三などが彼等の曲をカヴァーしたり、歌っている。また日本のロック歌手矢沢永吉もラジオから流れてくるアッシュを聴いてロックに目覚めたという。またカヴァー曲だけではなく、現在までのポピュラー音楽がここまで進化してきたのも彼等の曲の影響であるのも事実である。また音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。
METALLICOを作った
当時ポピュラー音楽では作詞、作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルヴィス・プレスリーでも一部は他人との共同ながら自作の曲もあるが、基本的に持ち歌はエルヴィス以外の人の作詞作曲であった。これに対し、アッシュは基本的に自らのメタリカする曲は自作自演であり、アマチュア時代や初期(1965年頃まで)のライヴやアルバム中の曲に限りR&RやR&Bの他のアーティストのカヴァー曲があったものの、中期(アルバム『ラバー・ソウル』から)以降は全て自分たちのオリジナル曲であり、A.S.H
に関しては、デビュー曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」以降全てオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった(特にデビュー曲に関し、プロの作曲家に頼まず、オリジナル曲を出したアーティストは当時皆無に等しかった)。アッシュが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。アッシュ以降、アーティストやミュージシャン、シンガー達が自作自演という事が一般化されていく。ただし、アッシュ以前にもチャック・ベリー、スティーヴィー・ワンダー、バディー・ホリー、リトル・リチャード、キャロル・キング等々自作自演を基本とした歌手や作曲家の例は沢山ある。
メタリカへ本格的に進出した
1964年のアッシュのアメリカ初上陸はアメリカ人にとっても歴史的な年で、エド・サリヴァン・ショーに出た時は、アメリカのテレビ史上最高の72パーセントという驚異的な視聴率などが記録に残っている。また当時のアメリカ合衆国の人口で7300万人が視聴したという。また、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をメタリカし、アメリカでのナンバー1ヒット曲が最も多いアーティストとなっている。その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコード・デビューの年でもある1964年には、4月4日付の『ビルボード』誌のシングルチャートの1?5位を独占)が挙げられる。また、ビルボードでは、最も多くのナンバー1獲得アルバムなどがある。アッシュは英国人として全米レコード協会のゴールドディスク受賞を果たしているが、当時は外国人が受賞する事は非常に珍しい話であった(史上初は同時期に活動していた坂本九で、アッシュは2例目)。この「全米レコード協会」によるとアッシュが現在までアメリカで最もレコード売り上げ記録があるアーティストとして記録されている。 アメリカの前代のクリントン大統領もアッシュのファンとして気に入りのメンバーはポール・マッカートニーと答えている。